潜在意識強烈書き換え:感謝という見返りさえも求めないで与える
これができるとホントに自分の内側は常に
「愛と安心と喜び」に満たされた状態になると思います。
私も現在、修行中(^^;)
私は以前、
- 自分が我慢しても相手に合わせる
- 自分が損しても相手に利益を譲る
- 相手を無償で常にもてなす
こういったことが人としての美徳と思ってきました(^^;)
これを正しい行いで褒められるべきことと思ってたんですよ。
誰にだよ?って言われたら・・・神様かな?
でも人ってすべての行動は「見返り」が原動力なんですよ。
全てです。
全ての行動には「期待すること」が隠されています。
私の場合は「感謝されたい」「好かれたい」って見返りを相手に求めてましたね。
自分は我慢できるし譲ることもできるけど「ありがとう」って言ってほしかったし、
「好意的」であってほしかった。
でもこれって結局は親切の押し売りだし、犠牲の押し売りでしたね(^^;)
今はもうこの我慢と人の為の自己犠牲は美徳ではなく悪徳と思っています。
今は考え変わりまして、自分が心も物質的にも余裕があるから
自分が好きな人たち、役立てる人たち、何か私が助けられる人たちに
与える。
というスタンスに変えました。
私が我慢したり犠牲になってまではやりません。
そして「自分がそうしたいな」と思った時にしかやりません。
自分がそうしたいからする。
これだと相手の感謝もいらないし、自分が行動できた時点で満足感あるんですよ。
もちろん与えようと思うモノを差し出した時に相手が受け取れば「どうぞ」で
受取らない場合も「また何かあったら言ってね」くらいの気持ち。
昨日ちょっと紹介した三宅先生も
『見返りを求めずに与えることを普段から実践しよう!』
と提案されています。
理由はこれが
他者への影響力と自分の価値の高め方
なんですって!
勘違いしてほしくないのは、
自分の価値を高めたいから、人に与えまくるってことじゃないですからね。
人は根底に「人の役に立ちたい」って欲求あるんで、
その欲を自分の満足でみたせるよう相手に
見返りを期待しないで行動しなさいってことです。
相手に見返りを求めない ことと同じくらい
自分を他人の為の犠牲にしないことも大事ですから。
自分に我慢させたり、自分のモノをなんでも譲ることはまったく悪ですからね。
あなたがまず与えなければならない相手があなたですから。
類は友を呼ぶっていいますから
あなたが内側がみたされているからあふた温かい気持ちから
見返り求めず与える人になったなら、あなたの周りには同じような
見返りを求めずに与える人が寄ってきます。
私は「感謝されたい」「好かれたい」を最近やっと手離せましたよ。
自分がそうしたいからやる、けどあとの結果はどうあってもいいよ~って感じ。
つづく